水と魚とユーザー中心デザイン

この記事はKaren McGrane著「Explaining Water to Fish」の抄訳です。
This article is a translation of "Explaining Water to Fish" By Karen McGrane.

ユーザー中心デザインに対する批判は止むことがありませんが、もしかしたらそこまで悪いものではないかもしれません。

よくユーザー中心デザインは制限が多いため、更にその先へ進まないといけないといった話を聞きます。もしくは、考慮しなければいけない全ての要素をカバーしていないので、単純に使いものにならないと言う人もいるでしょう。ジェレッド・スプールはユーザー中心デザインは全く役に立たないと言い切りましたし、ドナルド・ノーマンでさえユーザー中心デザインは害になる場合もあると話しています。

デザイナーがデザインプロセスを評価し、批判するのは正しいことでしょう。確かに方法論としてのユーザー中心デザインには多くの制限がありますし、このことは他の著名なデザイナーが言及しています。アクティビティ中心設計や自己中心設計も同じように、状況によっては正しいプロセスになり得るのです。

ただし、ユーザー中心デザインはただの方法論ではないということは忘れないでおいてください。ユーザー中心デザインは柔軟に変化する価値観の集まりです。「柔軟に変化する」と言っているのは、それがユーザー中心だからです。人々に使ってもらうためデザインし製品を作るという考えは、なんとなく壮大な理想のように感じられ、日々の仕事の中ではそれほど意識していないのではないでしょうか。

「私達はユーザーにフォーカスしている」ということに疑問の余地はありません。それは次のデービッド・フォスター・ウォレスの話に出てくる魚にとっての水のようなもので、当たり前すぎて普段は見過ごされているものです。

2匹の若い魚が一緒に泳いでいると、向こうから年老いた魚が泳いできて言いました。「2人ともおはよう。今日の水はどうだい?」 若い魚達はそのまま少し泳いでいましたが、やがてそのうちの1匹が振り返って聞きました。「水っていったい何?」と。 どこにでもあり、疑う余地も無いほど明らかで、重要な現実ほど、それを認識して考えることは難しいものなのです。

WSJ

私達にとっては「ユーザー中心に考えること」というのが、どこにでもあり、疑う余地も無いほど明らかで、重要な現実になるでしょう。そのため、自分の仕事がどのような意味を持つのか、理解するのが難しいのです。

もちろん、ビジネスは常に顧客を大切にします。しかしマスメディアやブロードキャストの世界では、コミュニケーションは常に一方通行となります。もしTVのチャンネルが3つしか選べないとしたら、TV番組はそれほど良くはならないでしょう。もし自分の住んでいる街に新聞が1つしかなければ、人々はそれ以外のところからニュースを知ることはできません。

もし自分が人々のために製品を作り、それが使いやすいと評判になったとしても、なぜそれが大切なのでしょうか? 顧客から手紙をもらったり、イライラした人から文句の電話を受けるかもしれませんが、顧客はすでにそれを買った後なので、特に気にする必要は無いと考えることもできます。

私達が作ったものでユーザーが何をするかを表すとき、よく「使う」、「操作する」、「関わり合う」といった言葉が使われます。これらの言葉は、全てユーザーが手を動かす点を強調しているのに気付くでしょう。Web、ソーシャル、モバイルは全て、ユーザーの積極的な働きかけが無くては価値が発揮されません。そして私達の仕事の価値は、ユーザーとの関わり合いの中でしか測ることができないのです。

私達は今、全く新しい世界の誕生を目撃しています。デジタル革命は、インターネットコミュニティが思い描いた以上のスピードで世界を変えてるのです。マスメディアと印刷物が主役だった社会からインタラクティブな時代への変化は、少なくとも封建制から資本主義への変化よりも大きなものとなるでしょう。

Netocracy

10年前、20年前と現在がどれほど違うかと考えることはあまり無いかもしれません。ビジネスは顧客を消極的な「消費者」として見る事は出来なくなりましたし、どの企業もユーザー体験をセールスポイントに置くようになりました。そのような中で、ユーザー中心デザインはただの方法論以上のものと考えるべきだと思います。それは私達の仕事に関わる価値観、魚にとっての水を大きく変えたものなのです。

Translated with the permission of A List Apart and the author[s].